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吉田に伝わる昔話

『下関昔話 吉田の巻』
という本に、吉田地方に伝わる山縣と高杉のエピソードが載っていました。

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 奇兵隊が、吉田に駐屯していた頃の話。

 軍監・山縣さんの日課は、馬術の稽古でした。
 山縣さんは乗馬が不得手で、しばしば落馬してしまうことを恥じて、吉田の領主山内家の家臣・山縣玄播というひとについて馬術を習い、上達に懸命でした。

 ある日、高杉東行さんが吉田へ巡回にやってきます。

 山縣さんは、「わしの乗馬姿をみてください」
 と高杉さんに言いました。

 高杉さんは、
 「きみの落馬姿を度々みてるので気がかりじゃったが、ええ先生について多少上達したじゃろうな・・・」
 と応じます。

 馬術の師匠である山縣玄播さんも誘って、みんなで蓮台寺まで遠乗をしました。
 山縣さんは先輩である高杉さんに馬術の稽古の報告をしたり、師匠である玄播に改めて礼を言ったりしていました。

 その帰り道、一行は肴屋に立ち寄り、一杯やることになりました。
 山縣さんは炊事場のおりんさんという女性に重箱を渡して、言いました。

 「蓮台寺の池でとった肴を入れておいたので、料理してくれ」

 重箱の蓋をあけて、おりんさんはびっくり。
 中に入っていたのは雨蛙でした。
 こんなことをするのは高杉さんに決まっている。そう思ったおりんさんは、怒って裏庭に飛び出しました。

 「おりんさん、あの重箱の雨蛙を、あれを今日は料理しておくれ」
 高杉さんは真剣に頼んでいましたが、おりんさんにはちっとも話が通じませんでした。

 上海帰りの高杉さんは、異人たちが蛙を食用しているというわさを知って、雨蛙を試しに食してみようと思っていたのです。
 そんなことは知る由もないおりんさんは、

 「御冗談ばかり。あれは背戸川に捨てました」

 こうして、蓮台寺池の雨蛙試食は、失敗に終わってしまったのでした。


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こんな感じで、妙にほのぼのするエピソードがいろいろと紹介されています。
ほかにも、山縣が馬丁に襲われそうになったけど日頃の馬術稽古のお陰で事なきをえた話とか、山内梅三郎が奇兵隊総督になったときに高杉と山縣が挨拶にいった話とかもありました。
奇兵隊に関するこういう日常的な話って、吉田にはたくさん伝わっていたんだろうなーと思います。そのうちの少しであっても、こうして文字になって残っているのは有り難いことです・・・。

ちなみに吉田の人たちからすると、四代目総督である山内梅三郎は自分たちの領主さまです。
そのお殿様よりも、高杉や山縣の名声のほうが遥かに大きいということに、複雑な思いを抱いていたことがわかるような記述もあり、興味深かったです。
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東行記念館に行ったら高杉と山縣の寄せ書き枕が見れた話

GW休みを利用して下関に行ってきました。

もちろん、個人的な最大の目的は吉田にある東行庵!
普段は入ることができない東行庵の建物の中が、GW期間中限定で公開されているのです。
が、それは置いておいて、今回は東行記念館で開催中の企画展、「高杉晋作の素顔―流水奔波の29年」のお話。

東行記念館は年1ペースで来ているので、ある程度心の余裕もあり、そこまで焦ることなくゆったりと見学するつもりでした。
順路に沿ってみていくと、少年時代に使っていた文机や、入江九一宛の書状、写真アルバムやなど、初めて見るものも見たことがあるものも展示されているので、興味深く見ていました。
しかし、半分くらい見て回ったところで激しく動揺。

功山寺決起のときの具足一式!!!!

東行記念館ではわりと頻繁に展示されているようですが、私はしっかり見たことがありませんでした。
高杉が決起したときに身につけていた腹巻・小具足は、かれの死後、形見分けとして、葬儀の世話人でもあった山縣に与えられたものでもあったのです。(兜は別)

いいものが見れたなあ、と思いながら順路を進んでいったら、最後の展示スペースで次なる動揺が。


山縣にプレゼントした挙句惜しくなって返してもらった瓢箪!!!!


高杉晋作といえば腰にぶらさげた瓢箪で酒をのむ、というパブリックイメージを形成する原因をつくっているこれ・・・
(10年くらい前にオードリーがラジオでそういう話をしていて、「そこまで浸透してるん???」とびっくりした思い出)

ちなみに山縣は、高杉の没後50年の遺品展でこの瓢箪に再会し、「ひさご酒 君がすすめし有様は 目にも耳にもなお残りけり」という和歌をつくったりしています。
実物、想像の三倍くらいでかいな・・・と思いました。
ちなみに、この「高杉が山縣に瓢箪返してって頼んだ手紙」は、慶応元年12月30日に書かれたとされています。


「山縣ゆかりの品多すぎない・・・???」と思いながら視線を移して、この日いちばんの動揺をすることになりました。


木枕がある???!!!!!

これに関しては、去年『吉田・晋作・東行庵』という、東行庵発行の書籍で存在を知っており、気になっていたものでした。
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存在を知ったときのツイート↓


この写真だけでは何が書いてあるのかもわからないし、裏に山縣の和歌が書かれているというのも気になるではないですか・・・。
一応、『高杉晋作史料』にもこの木枕に書かれた高杉の漢詩のことは載っていますが、詩の内容の解説がなくて意味がわからないという現実(悲しき無教養)。
山縣の和歌に至っては、「反対側に素狂ほか一名の歌が書き付けられている」としか記述がありません。
木枕の箱には由緒が書かれているらしく、この枕は宮市(防府)の小山市右衛門という人の家に伝わっていたものということ。小山家には、高杉や井上聞多はじめ、政府役員が宿泊する機会が多く、そのときに買い求められたものらしいです。

「東行記念館で展示してくれーー!!!」などと日々ツイッターで騒いでいたのですが、いざ目の前にするとびっくりしていまいます。

ちなみに、上の写真は山縣の和歌が書かれている側のようです。
(左側の見切れているほうがたぶん山縣の書いたもの)
この裏の、高杉の漢詩が書かれている側を向けて展示されていました。
ちょっと頑張ってみたけど、角度的にどうやっても裏側の山縣の和歌など見えそうもないし、そもそも高杉の漢詩も意味がわからないし、寄せ書きをしているもう一人の人物も気になる・・・。

「せっかくここまで来たのに、謎を残したまま帰るわけにはいかない!ということで、学芸員さんに質問をしてみました!

「『高杉晋作史料』で見たんですけど、裏にも何か書いてあるんですよね?」という、我ながら白々しい質問を引っ提げてお伺いをしたところ、非常に親切に教えていただくことができました。
曰く、「裏には山縣有朋ともう一人の和歌が記されている」と。
ただ、文字が非常に読み取りづらく、もう一人の人物が誰なのかはわからない、ということでした。
山縣の和歌についても、翻刻したものを見せていただきつつ教えていただきました( ;∀;)
ふたりの詩と和歌は以下です!

◆高杉の漢詩◆
夜深繍匣
収絃子触
枕金釵独
有聲

東行一狂生  東行


◆山縣の和歌◆
玉水の伴ふ音の
静けさに夢
も軒端をめ
くる夜半かな

素狂


学芸員さんに教えていただいた高杉の漢詩の解釈としては、「絃子(三味線など)も匣に仕舞われているため、簪が枕の木の部分に当たる音だけが響く、静かな夜更け」について詠んだものだということです。なるほど!
山縣の和歌についてはきちんと解釈をしていないものの、同じように「夜の静けさ」について詠んだものだということでした。
テーマを決めて寄せ書きしていたのでしょうかね…ほああ(*´Д`)

もうこれを教えていただけただけで、下関にいった目的が100%達成できた気がします。
その節は本当にありがとうございました!!!!私は今後も東行記念館を推してまいります!!!!

他にも質問したいことは山ほどある気がしたけど、口を開けば山縣の名前しか出てこなさそうだったので、やめておきました。

なお、もう一人の人物について、最初は安易に「福田侠平では?」と思っていたんですが、この三人が一緒に宮市の商家に宿泊する機会があったのかどうかは微妙ですね。
高杉の慶応元年8月24日の漢詩で、「花浦(防府)の山根宅で山縣・大田市之進と飲んだときに詠んだぜ!」というものがあるんですが、このとき一緒にいたらしい大田市之進とかいう御堀耕助なんて怪しいのでは?と思っています。
崩し字読めるえらいひと、読んでください・・・(他力本願)

なおこの企画展は6月24日までやっているので、興味がある方はぜひ吉田東行庵へ!('ω')

高杉の死と葬儀と山縣の上京問題について@慶応3年

予は上京して薩邸に入り其の動静如何を探知し目的一に合せば倶に事を成さんと欲し
且諸隊に向ては今日の薩は昔日の薩に非ざる所以を明瞭ならしめんと欲し其心算を立てたりしに
高杉は何の思ふ所ありてか常に之を止めたり。

(『懐旧記事』)


山縣有朋の幕末期の回顧録である『懐旧記事』には、上記のような一文があります。
要は、いい加減長州から出て上京して薩摩との周旋とかそういう志士っぽいことをやってみたい!!!という山縣の切実な望みを、高杉が無下に断ち切り続けたという話。
伊藤之雄先生はこの件について、「死の床にあった高杉晋作が、寂しさのあまり、山県の京都行きを嫌がったからであろう。山県にはこういう優しさがあった。」(文春新書『山県有朋 愚直な権力者の生涯』)と評されています。

伊藤先生の本を読んでから、「実際どういう経緯なんだろう???」という疑問を抱えていたので、高杉の死と葬儀に絡めて、山縣の上京計画に注目してみました。


【この記事の登場人物】
■高杉晋作(谷潜蔵)
慶応3年4月14日(13日深夜)病没。16日、厚狭郡吉田村の清水山にて神式の葬儀が執り行われる。

■山縣狂介
12日に石川良平娘友子との結婚式をしていたが、高杉の危篤のため下関に呼び戻され、そのまま葬儀の世話人をつとめる。
この時期、高杉に上京を留められていたと証言している。
※山縣の結婚式の夜に着目した記事はこちら

■久保松太郎
松陰先生の親戚。船木・吉田などの要地の代官を歴任しており、慶応3年当時は下関在勤。
高杉の見舞いに足繁く通っており、かれの病状が悪化してゆくさまが『久保松太郎日記』に記されている。

■中野半左衛門
西市(現在の下関市豊田町)の大庄屋で萩藩の御用商人。
奇兵隊とも交流が深い。山縣の舅・石川良平の義理の父であり、山縣の婚姻の宴に招待されている。
『中野半左衛門日記』には、山縣の結婚式当日の様子などが記されている。

■白石正一郎
竹崎の商人。
葬儀には山縣・福田とともに関わっており、高杉の葬式の記録を残している。

■福田侠平
山縣とともに高杉の葬儀の世話人となっている。

■片山貫一郎
奇兵隊教授方。一説には白石正一郎の娘婿とも言われ、交流が深い。
高杉の神式葬儀で典儀をつとめ、祭文を読む。

■桧了厳
高杉が晩年、行動を共にしていた僧。高杉の最期を看取ったともいわれる。

■おうの
高杉の妾。最期まで看病していたかどうかは定かではない。
後年、新聞の取材にて、高杉の最期について語り残している。


【山縣上京までのざっくりとした経緯】
※前提として、前年秋くらいから、山縣は木戸らに上京をさせてもらえるよう動いている。

慶応3年2月22日
・藩政府より、山縣へ上京の命が下る(公爵山縣有朋伝)

2月29日
・山縣、上京の用筋について問い合わせるために山口に行く(木戸孝允文書/奇兵隊日記)

3月7日
・山縣の上京が、奇兵隊中に告知される(奇兵隊日記)

・3月21日
山縣、大宰府にいる木戸に対して、上京について指南を乞う手紙を書く(山縣有朋関係文書)

4月2日
・山縣の上京のための出立において、鳥尾小弥太の随行が決まる(奇兵隊日記)

4月3日
・山縣が、上京のため吉田の本陣を発ち馬関に向かう。
長府まで、奇兵隊幹部らが見送る(奇兵隊日記)

4月8日
・山縣が久保松太郎に「谷気分宜しからず」と伝え、共に林算九郎方の高杉を見舞う(久保日記)
・山縣が石川良平娘友子と婚姻することが中野半左衛門夫妻に知らされる(中野日記)

4月11日
・山縣と石川良平娘友子の婚姻の宴が執り行われる(中野日記)
※この婚儀の場所は不明ですが、馬関ではないことは確か。湯玉かな?
・久保松太郎、高杉を見舞う。「谷別して不快の由」(久保日記)

4月12日
・久保、再び高杉を見舞う。「少し折り合い候由」(久保日記)
前日具合が悪かったので、心配して再び見舞いに行ったのだと思われる。久保さん・・・(´;ω;`)
・山縣の結婚祝として、奇兵隊士や中野等で宴会(中野日記)
・夜半頃、祝宴中の山縣のもとに馬関よりの飛脚が訪れ、高杉の危篤が知らされる(中野日記)

4月13日
・山縣、馬関へ帰る(中野日記)
・夜半、高杉が林算九郎方にて命を落とす(奇兵隊日記ほか)
・夜八ツ時、高杉死去の知らせを訊き、白石正一郎と片山貫一郎が林方へ行く(白石日記)
・夜九ツ半時、福田より高杉の訃報を知らされ、久保松太郎が林方へ急行(久保日記)
※ちなみに「白石日記」によれば、福田侠平はこの前日、白石邸を訪問しているので、山縣と違って馬関に居たことがわかります。
・臨終についての梅処尼の証言
「旦那は又も突と首だけあげられまして、山県狂介は未だ来んか、とお叫びなさいます。竜眼(桧了厳)さんは手を突かれて、山県さんは、今日は丁度吉田村で、湯玉の石川のお嬢さんと、婚礼をなさる日だといふことをお話しなさいますと、アハ………さうであッたか。能くいッといて呉れ、と高らかにお笑ひ遊ばしそのまゝ寝入るが如く黄泉へ………三人は泣き崩折れました。御享年廿九歳。」
(「東行庵梅処尼今昔物語」)
この梅処尼の回顧録は、時系列を考えてもそんなにおかしくないと思います。
臨終の場ではなかったとしても、これに類するような出来事があったのでは、と思わせられる。

4月14日
・昼前、白石邸にて、山縣・福田・白石で高杉の神式葬儀について相談をする。一酌し、夜中に福田・山縣は帰る。
その際、山縣は、近日中に上京をする予定のため、藤井良節に刀を催促する手紙を白石に言伝る(白石日記)
「ハイじゃあ高杉さんも亡くなったことだし僕は心置きなく京都に行くのでよろしく!」って山縣さん、それは流石に露骨すぎでは???(言ってない)


4月15日
・高杉の葬式のための神祭用具が、ことごとく白石邸に預けられる(白石日記)

4月16日
・吉田にて、高杉の神式葬儀が執り行われる(神式葬儀記録)
※葬式の流れはこんな感じ。

4月18日
・昼前、山縣が厚東次之助・鳥尾小弥太等と共に白石邸を訪ねる(白石日記)

4月21日
・山縣が木戸に手紙を書く。
高杉の逝去を知らせ、上京の随員が鳥尾小弥太に決まったことも伝える(木戸孝允文書)

4月23日
・山縣、久保松太郎を訪ね、料亭岩万に同道する(久保日記)

4月25日
・山縣、変名を秋本竹之助にする(久保日記)
・山縣、近日中に薩摩船にて上京することを、吉田の奇兵隊本陣に知らせる(奇兵隊日記)

4月26日
・大坂楼にて、山縣・鳥尾の送別会(久保日記)

4月27日
・山縣、白石邸に上京の暇乞いに行く(白石日記)
・馬関を訪れていた薩摩藩士大山格之助等が、山縣と同船して上京すること久保に申し出る
※山縣の同意がないため、久保は返答せず(久保日記)

4月28日
・曙亭にて、山縣等の出立につき、送別会(久保日記)

5月2日
・山縣、鳥尾は馬関を出立。見送りは久保、福田、滋野等(葉桜日記)

上京後のざっくりとした流れはこちら


4月14日に山縣が一瞬で上京の話を進めているのはさすがに露骨すぎませんか、というのが突っ込みどころ。

久保日記を読んでいると、病状が進行した高杉の周囲からは、遠ざかっていく人がかなり多かったんだろうなあ…と察することができます。(久保松太郎は最期まで見舞いに行っていた数少ない人物では)
高杉本人から積極的に上京を留められていたのかはともかく、結局高杉の葬儀が無事に終わるまで馬関に留まり続けた山縣の気持ちは、少しわかるような気がします。少なくともこの頃の山縣って、そういう人だよな、という認識。

慶応年間の山縣は明らかに木戸系のグループではなかったけど、高杉が亡くなると後ろ盾になる人間(藩政府に携われるような立場の)がいなくなるのは明らかなんですよね。なので、この少し前から木戸さんへの接触が少しずつ増えていっている印象が強いですね。でも根っこから木戸系でもないし大村系でもないっていうことが、この後の西郷さんへの傾倒にもつながっていくのかなあ、と。

山縣が東行庵に植えた梅の樹の話

冬の終わりから春のはじめ頃。ちょうど今くらいの時期に東行庵に行くと、白やピンクの梅の花のかわいらしさを思う存分に楽しむことができます。

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高杉ファン以外にとっては知らんがなという話ではありますが、梅の花は、高杉晋作がもっとも愛した花でした。

高杉は天神信者だったので、その象徴ともいえる梅の花に非常にこだわっていたのだと思います。

ファンからすると当たり前すぎて感覚が麻痺していますが、そのこだわりようは冷静に考えるとものすごく、自分が変名を使うときには「梅之助」と名乗り、息子が生まれれば「梅之進」と名付け、東行庵の初代庵主となった高杉の恋人のおうのも、高杉が亡くなった直後から「梅処」と名乗っていました。
また、高杉が人生最期につくったと言われる詩も、老梅と鶯をモチーフにしたものであったりします。

何が言いたいかというと、高杉にとって梅の花というのは、とても大きな意味があるということです!!!

そういうわけなので、現在の東行庵に梅の花がたくさん植えられているのは、まあそりゃそうでしょうと思います。
私が以前から気になっていたのは、あの地が東行庵になる前、つまり、山縣有朋の初代無鄰菴であった時期にも、梅の花は咲いていたのかどうか、ということでした。
いきなり 結論からいうと、山縣の時代から、あの地には梅の樹があったようです。
マツノ書店さんから出ている『こしのやまかぜ・懐旧記事』収録の「風雲集拾遺」という山縣の詩歌集に、こんな歌が収められていました。




      若きとき植おきたる吉田の無鄰庵の梅一枝をある人のおくりおこせければ
   ふるさとの梅の一枝手にとれば昔にかえす花の香ぞする



この歌から、山縣がかつて初代無鄰菴に梅の樹を植えており、少なくともこの歌が詠まれた明治39年頃にはまだその樹が残っていたということがわかります!

山縣は、じぶんの庭のことをよく歌や詩に詠みこんでいるので、その他にも初代無鄰庵についての詩歌を調べて、当時の様子を探ってみよう!

同じく『山縣公遺稿・こしのやまかぜ』収録の「風雲集」(これも山縣の詩集)より、慶応3年~明治2年の初代無鄰菴に関する歌を抜き出してみました!
(歌を詠んだ時系列順に並べていると思います)



 ■文月の末つかた都より歸りて清水山に世をさけて                    
  しる人はくみて知るらん清水山あさくもすめるおのがこころを
  あさけれど門のながれの一筋はうき世の中を隔てつるかな

 ■草廬を無鄰菴と名づけて
  となりなき世のかくれがのうれしきは月と蟲とにあひやどりして

 ■題草廬壁
  清水山前遠市囂、疎松寂々竹蕭々、有人如問吾茅屋、一逕斜通獨木橋

 ■八月十五夜白井野村時山南野など我庵にきたりければ
  何事も心かまへもなきやとは月こそよひのあるじなりける

 ■草庵にてよみけるうたども
  いつしかと聞くになれたる松風も耳たつ秋になりにけるかな
  もろこしの虎ふす野へとおもひしを此山里の人となりけり
  山水もあさくながれて砂しろく小松にこもるすまひなりけり
  きのふけふみねのしぐれに我庵の軒ばのもみぢ色つきにけり

 ■おなじ月の末萩より我庵に歸りて
  歸らじと思ひさだめていでし庵にふただびむすぶ夢の世の中

 ■明治元年戊辰正月三日奇兵隊の人々子の日のあそびにものして草庵に一もとづつ松をうつし植ければ
  移し植てよはひをのへの姫小松千代もとまてはねかはされども

 ■明治二年己巳の春のはじめ無鄰庵にて
  なみなみの世にはそむきてすむ庵も春におくれぬ鶯の聲


 ■己巳歳旦試筆
  無鄰草屋幽情更覺酒間塵味輕山鳥一聲梅一樹疎簾風動暗香清




こんな感じでした!時系列順にみていくと、最初の頃は言及していなかった梅の樹について、明治2年の詩で初めて詠まれていることがわかります。さらに、梅と関連する鶯という単語も出てきています。
山縣が住み始めた当初より梅の樹があったわけではないけれども、明治2年の冬より前に植えられたのではないか、という想像が成り立ちます。
(ちょうど、明治元年に奇兵隊士たちが一本ずつ松を植えたように)


さらに決定的なことには、明治42年8月11日の東京朝日新聞で、こんな記事を発見しました。
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「逝ける梅処尼」という題のこの記事は、この年の8月7日に亡くなった梅処尼のもとを、朝日新聞の記者が訪れた際のレポートとなっています。

記事によれば、記者が訪れたとき、梅処尼は病床に臥していました。が、珍しい遠方よりの来客に喜び対応をしたようです。
しかし、記者に高杉のことを尋ねられた途端、
「色遽に動き、眉根頓に上り、當時の事何呉となく譚り、『高杉が死んでからモウ四十年になります、存生中は今の立派な方々が毎日の樣に往復しました』と語り出て、急に口を噤んで後を言はず」
という様子に。
記者は梅処のただならぬ様子に遠慮をして帰ろうとしたものの、彼女によって引き留められ、仏間に招き入れます。そのあと記者が見たものについては、次のように書かれていました。



佛間の本尊は東行の油絵にして竪二尺横一尺五六寸、英姿颯爽、當時の長州青年を風靡したる豪傑の面目躍如たり、 
梅處尼今は病も忘れたるらしく、いそいそとして客間の戸を開け放てば、
これと共に紛として鼻を撲つものは、古杉老梅の間に交る三株の老梅なり、
こは山縣公が奇兵隊當時に植たるものとかや、梅處尼が更に奥より取り出せる一軸を見れば、

    若きとき植おきたる吉田の無隣庵の梅を
    東行庵主梅處尼のおくりければ
                         椿山荘主
  ふるさとの梅の一枝手に取れば
           昔にかへる花の香ぞする
   おくりこし梅も老木になりぬれと
           花は昔にかはらざりけり

とあり



東行庵の客間に面した庭に山縣が植えた梅の樹があり、それに関する和歌の軸も梅処尼にあったというのです。

私が知りたいこと(というか、それ以上の情報)が的確に書いてあった!!!!!
当時の新聞、侮りがたし!!!!(取材ガバガバの記事も多いと思いますが・・・)
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この記事からわかることは、
①山縣の植えた梅の樹は、東行庵の客間から見える位置にあったらしいこと
②「風雲集拾遺」に編まれている梅の花の和歌の「ある人」が他でもない梅処尼であったこと
③もともとは東行庵にいる彼女に贈られた歌だったということ
④詩集には漏れてしまったものの、同じタイミングで詠まれたもう一つの梅の歌があったこと

そして、依然わからないこと。
山縣の植えた梅の樹は、どうなってしまったのか・・・。
ついでに、梅処尼がこの記者に見せたという、山縣が贈ってきた歌もどうなってしまったの・・・。
このあたりは、何かしらの資料が見つかることを期待しています。山縣が贈った書は、東行庵にあれば一番いいんですが・・・(いつか展示されるかもしれないという希望が生まれるから)

梅に関しては、今は山縣が植えたものは存在しなさそうな予感ですが、
次に行ったときにはいつものごとく心の目モードを発動させて見てこようと思います(笑)
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初代無鄰庵は、名実ともに隣なき世の隠れ家でした。
でもじつはその庵の隣に眠っている人がいて、その人の好きだった花を植えるというのは、いかにも山縣らしいなあと思います。
(この感想には個人差があると思いますが、山縣は早世した友に対しては、情のあふれる言動をする人だったと思っています)(山縣ポジティブキャンペーン)

山縣有朋、幻の除幕式スピーチ

明治44年5月20日、山口県厚狭郡吉田村清水山にて、高杉晋作の顕彰碑除幕式が執り行われました。
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当日、会場で井上馨が声涙下る大演説を2時間(諸説あり)くらいぶちかまし、参列者が日射病でバタバタ倒れた話は有名ですよね!

しかし、この除幕式に、実は山縣有朋が病気のために来られなかった、という話はほとんど知られていないのではないでしょうか。
そうして、除幕式当日、山縣からの祝辞(?)が墓前で代読されていた、という話はもっともっと知られていないのではないかと思います!
ということで、コレは山縣有朋による幻の除幕式スピーチについてアピールしたいがための記事です(笑)

ソースは、『日本及日本人』の677号(大正5年発行)、高杉東行特集の号に載っている、五十崎杏沖という新聞記者による「東行先生の墳墓と奇兵隊」という記事です。
(私が読んだのは、東行庵発行の『高杉東行先生 : 復刻・『日本及日本人』六七七号より 』という本なのですが・・・)

山縣の祝辞については、本文中にも
「此日山縣公は微恙の故を以て蒞まなかったが、恭しく謹告の詞を寄せて先生の墓前に代讀せしめた」
と書かれています。
(難しく言っているけど軽い病気で行けなかったとかそんなかんじですね)

そんな幻のスピーチ原稿が、以下の通り。
漢字はできる限り原文のまま。


==========================================



山縣有朋、稽首再拜、謹んで亡友高杉晋作君の墓前に告ぐ。

嗚呼、君の逝きしより茲に四十五年、往時を回顧すれば恍として夢の如し。
然れども君の音容は、宛として尚眼前に在り。

君は交通極めて廣く、當時の俊傑は殆んど皆な君が金蘭簿中に在りたりと雖も、同じく奇兵隊に頭領として死生を共にし心々相許したるは、恐らく有朋に過ぐるものなかるべし。

君が逝きて後、鳥羽伏見の一戰を經て、王政忽ち古に復し、爾來皇運の隆なる、國威の盛なる、殆んど前古に類例なし。
明治二十七八年には清國と戰ひて全勝を博し、三十七八年には世界の强國露西亞と戰ひて又大捷を奏し、去年八月には竟に朝鮮を併合して皇國の領土となし、以て祖宗の皇謨を成就することを得たり。

有朋等生れて聖明の朝に事へ、幸に殘喘を保ちて此盛事を観る、未だ曾て君と其樂を同うせざるを恨まざるはあらず。
君元稀世の才、機略縦横、得て端倪すべからざるものあり。
天若し年を假さば、其有朋等を指導して君國の爲に大業を立つること、固より非常なるを疑はず、不幸壯年にして没す、豈哀しからずや。

前年伊藤井上等の諸友と胥謀りて君が爲に碑を建て、聊か追慕の情を慰す。
而して今や伊藤が兇徒の毒手に罹り客地に横死して、又兩年を經たり、當時事を共にする者、寥々として晨星も啻ならず。
墓前に拜讀して、自から感慨に堪へざるなり。

後死の友人、山縣有朋、稽首再拜、謹んで告ぐ。



==========================================

うん、シンプル。笑
この祝辞の存在について知る前から、もし山縣が除幕式に出席していても、何を話すのか想像できないよなぁ・・・などと思っていたんですけど、実際読むと「ああ、山縣らしいな・・・」という感想しか浮かばなかったです。

私が好きなポイントとしてはまず、
「然れども君の音容は、宛として尚眼前に在り」
という部分です!
「瓢酒 君がすすめし有様は 目にも耳にもなお残りけり」という歌と同じ雰囲気ですよね。

そして、最高に好きなのが、
「君は交通極めて廣く、當時の俊傑は殆んど皆な君が金蘭簿中に在りたりと雖も、同じく奇兵隊に頭領として死生を共にし心々相許したるは、恐らく有朋に過ぐるものなかるべし」
ですね!!!!!!
ざっくり現代語訳としては、「君は友達多くて交友関係広いし、当時の俊傑はみんな君と友達だったかもしれないけど、奇兵隊のトップとして死生を共にして心を許しあったのは、まあ自分だけだと思う」
という!!!!!
何ソレ・・・控えめ・・・スキ・・・となりました。

やはりこのふたりの間を強く結ぶものが、他の何でもなく奇兵隊なんですよね。
山縣と高杉が同時期に奇兵隊であった時期ってたぶんゼロなんですけど、それでも、山縣と高杉の関係において、奇兵隊というのはめちゃめちゃ大きいわけです。

あとわたしも山縣と同じく友達少ない側の人間として、交友関係広い相手に対するこのスタンスには共感しかないぞ、という感じです(かなしい)
でも奇兵隊で生死を共にして一緒に命をかけてきたのは自分だけ、という自負もあって、良い。

あとはまあ、わりと無難な内容ですね・・・。
私が高杉の思い出話をする山縣のことが好きなのは、エピソードを盛ったり、極端に持ち上げたり、逆にくさしたりするのではなく、淡々と語るからです。(懐旧記事参照)
相手が45年も前に亡くなっているのに、「生前は親友だった!」「めっちゃ可愛がられていた!」「素晴らしい人だった!!!」とか嘘でも言わないあたりが山縣クオリティ。
そういう淡泊な言葉選びは、当日、この代読の後に演説をぶちかます井上馨の情が溢れる熱い演説とは好対照で、好きだなあ、としみじみ思うのでした。

あとは、「君」っていうのが二人称っぽくていいなあとか思ったりします。井上のスピーチだと「高杉君」と言っていて、三人称っぽいんですけど。


ということで明治44年5月20日、除幕式に参列した吉田村の小学生になりたい。いや、むしろ、コレを代読する人になりたい人生だった・・・。
(ちなみに、井上馨の2時間演説は、東行庵発行の『高杉晋作の歌』という冊子に全文収録されています)