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高杉東行葬儀一件

慶応3年4月13日深夜に病没した谷潜蔵こと高杉晋作の葬儀は、同16日に吉田にて行われていました。

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この神式葬儀について、高杉家、白石正一郎、吉田の大庄屋末富家がそれぞれ記録を残しており、『高杉晋作史料』に全文収録されています。
今年の初め、この葬儀記録を何気なく流し見ていたら、山縣(と福田)が高杉の入棺をしていることに気付いてしまい、ちょっと衝撃を受けていました。
そこから、「葬儀ってどういう流れなのか…???」と、がぜん興味を持ってしまった次第です。よくよく読んでみると、山縣(と福田)は、驚くほど深く葬儀にかかわっています。つまり、奇兵隊が高杉の葬儀にとんでもなく深くかかわっている、というか、まるで奇兵隊の人間であるかのような扱いをされているのです。


高杉家が残した記録を現代語訳にしつつ、白石・末富の記録にある情報を補足して、その死から葬儀の流れをまとめてみました。青字の部分が白石・末富家記録からの補足と私の個人的見解、それ以外はすべて高杉家の記録に基づくものです。
素人なので原文の意味を取り違えている可能性はすごく高いです・・・。間違っている箇所があれば、ご指摘いただけたら幸いです。

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この度、谷潜蔵(高杉晋作)が、馬関林算九郎方にて死去した。
小忠太その他、高杉家の家族も馬関に来て看病していたので、次のような諸々のことを取り計らった。

■故人である晋作の遺言によれば、「吉田駅へ埋葬してほしい」ということであったので、世話人の隊士、山縣狂介・福田良輔(註:当時、既に侠平と改名しているはずですが、高杉家の葬儀記録では一貫して良輔表記)その他へ、その旨を伝えた。
■奇兵隊の希望としては、「葬式は神式で行いたい」ということだったので、その通りにするよう、山縣・福田に任せた。
ただし、この二件については、山口の藩政府に許可を求める必要もあったので、了厳(註:桧了厳。高杉が晩年、行動を共にしていた僧。高杉の最期を看取ったともいわれる)に頼み、山口へ行ってもらった。これも、山縣・福田が申し付けたことである。
■棺について。一歩(三平方メートル)のヒノキの板で箱をつくる。衣服は、新しい白装束を用意。その他特別な副葬品は用意せず、質素なものとする。「故人の遺志を損なわないように」と、山縣・福田が言うので、その通りに準備した。山縣・福田によって、14日の夜に入棺が済まされる。
※外棺(棺を入れる箱)はなく、棺の上にはしめ縄を張った。
<棺のこと>
白石の記録にも、「箱にして随分広く長く」とあります。ことごとく「箱」という表現がされているので、一般的に江戸時代の棺桶としてイメージされる丸桶ではないのかなあと思っています。

■入棺が済み、居合わせている者から焼香をする。しばらくは生者のごとく霊供(食事の供え物)を用意する。追々、焼香を申し入れてきた人たちにも焼香をしてもらった。
■山口へ向かわせた了厳は、16日早朝に馬関に戻った。奇兵隊からの希望として神式での葬儀を藩政府に願い出たものの、許可はもらえなかった。ただし、「自葬式の体で葬儀を執り行うのは自由である」という山口の藩政府からの返答を携えてきた。こちらはそれでOKだったので、16日の朝、吉田に向けて馬関を出発した。
※棺は、浅黄の油単(一枚布)をかけて、雇い人夫に吉田まで運ばせた。
<自葬式のこと>
当時、神葬祭が許されているのは神職本人とその嫡子のみでした。志士たちが生前いくら「神葬にしてくれ!」と言い残していても、遺された人たちによって必ずしも実現されるとは限らなかったそうです。
高杉の場合、本人の希望もあったかもしれませんが、奇兵隊サイドが強く神式葬儀を希望しています。しかし、藩政府によってあえなく却下。ただし、「自葬式ならいいよ」という折衷案を出してくれています。
自葬式は、すごくざっくり言うと葬祭を独占している僧侶への反発から生まれた儒式の葬儀です。徳川光圀が奨励しており、「水戸の自葬式」とも呼ばれる。しかし、神道の要素もかなり入っています。なので、折衷案になり得たのでしょうね。当事者たちの意識としては、完全に「神式葬儀」だったとは思いますが…。
ちなみに白石正一郎は、この前月3月に亡くした父の葬儀も、自葬式で執り行っています。


■小月にて昼休憩。八ツ時頃(15時頃)、吉田駅の末富家に到着。
※諸々の手筈は奇兵隊の世話による。

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■この度の葬儀は、すべて片山貫一郎(註:奇兵隊教授方)に取り仕切ってもらう。諸々の道具も頼んでおり、片山が吉田に到着して、用意が整った。
※片山は、山縣・福田と事前に示し合わせている。
■宿(註:末富家)にて、棺の前に典具を準備し、大宮司が祝詞をあげる。
■大宮司の祝詞が終わってから、高杉家の遺族と軍監衆(山縣・福田)が焼香を済ませる。その後、同所において一汁二菜の膳を食す。片山・大宮司も一緒に。
※軍監たちその他の参列者は、別所にて膳を食す。
<膳のこと>
末富家の残した記録によると、メニューはこんな感じ。
皿 白あへ・こんにゃく・ぜんまい
汁 干大根・わらひ
平皿 飛竜頭・ふき


■馬関から随従してきた人たちや吉田の司令士・隊長等が、棺前での焼香を済ませる。その他の焼香は断る(?)
■以上のことが終わってから、出棺。

<葬列について>
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間違っている気しかしないけど、高杉家の記録をもとにしたイメージ図。
微妙に白石の記録と異なる点があるのでよくわからない…。

以上のようにして埋葬地へ向かい、棺を台の上に据え、典具を設置した。大宮司が祝詞をとなえ、典儀片山が祭文を読む。祝詞が終わると、棺を埋め、焼香をした。
※親族は、祝詞が終わったあとに焼香をした。
■位牌は追々祀るということだったので、高杉半七郎(註:高杉春祺。晋作が高杉家を廃嫡になったことに際し、他家から迎えた養子。のち高杉家の家督を正式に継いでいる)が持って帰った。
■埋葬が終わると、末富家へ帰り、一泊した。
※軍監その他は別所に泊まった。
■翌日17日、朝食後墓所に参り、吉田駅を出発した。
■葬式の費用は軍監(山縣・福田)に世話してもらっており、金額が確定し次第追って支払いをすることになっている。

<以下、葬儀自体には関係がない記述が続くので略>
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ひととおり記録を読んで思ったのが、高杉には奇兵隊の人間として葬られなければならない理由がなにかあったのかなあ・・・ということです。
3月に上京命令が出ていた山縣は、けっきょく高杉の葬儀を終えてから本格的に上京の準備にとりかかり、5月初めに薩摩船に乗って京に向かっています。そして、6月に帰国してからは、高杉の墓のある吉田清水山のふもとに、無鄰菴をつくって住み始めたようです。この無鄰菴が、のちに梅処尼に贈られ、東行庵になって現在に至ります。
高杉が自分の上京を留めていた、と山縣は回顧録においてのちに証言しています。しかし、この葬儀の流れを見ると、山縣には高杉を奇兵隊の人間として葬ってしまうまで、国許に残っている必要があったのではないか、と思ったりもします。が、まあすべて妄想です。
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