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山縣が東行庵に植えた梅の樹の話

冬の終わりから春のはじめ頃。ちょうど今くらいの時期に東行庵に行くと、白やピンクの梅の花のかわいらしさを思う存分に楽しむことができます。

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高杉ファン以外にとっては知らんがなという話ではありますが、梅の花は、高杉晋作がもっとも愛した花でした。

高杉は天神信者だったので、その象徴ともいえる梅の花に非常にこだわっていたのだと思います。

ファンからすると当たり前すぎて感覚が麻痺していますが、そのこだわりようは冷静に考えるとものすごく、自分が変名を使うときには「梅之助」と名乗り、息子が生まれれば「梅之進」と名付け、東行庵の初代庵主となった高杉の恋人のおうのも、高杉が亡くなった直後から「梅処」と名乗っていました。
また、高杉が人生最期につくったと言われる詩も、老梅と鶯をモチーフにしたものであったりします。

何が言いたいかというと、高杉にとって梅の花というのは、とても大きな意味があるということです!!!

そういうわけなので、現在の東行庵に梅の花がたくさん植えられているのは、まあそりゃそうでしょうと思います。
私が以前から気になっていたのは、あの地が東行庵になる前、つまり、山縣有朋の初代無鄰菴であった時期にも、梅の花は咲いていたのかどうか、ということでした。
いきなり 結論からいうと、山縣の時代から、あの地には梅の樹があったようです。
マツノ書店さんから出ている『こしのやまかぜ・懐旧記事』収録の「風雲集拾遺」という山縣の詩歌集に、こんな歌が収められていました。




      若きとき植おきたる吉田の無鄰庵の梅一枝をある人のおくりおこせければ
   ふるさとの梅の一枝手にとれば昔にかえす花の香ぞする



この歌から、山縣がかつて初代無鄰菴に梅の樹を植えており、少なくともこの歌が詠まれた明治39年頃にはまだその樹が残っていたということがわかります!

山縣は、じぶんの庭のことをよく歌や詩に詠みこんでいるので、その他にも初代無鄰庵についての詩歌を調べて、当時の様子を探ってみよう!

同じく『山縣公遺稿・こしのやまかぜ』収録の「風雲集」(これも山縣の詩集)より、慶応3年~明治2年の初代無鄰菴に関する歌を抜き出してみました!
(歌を詠んだ時系列順に並べていると思います)



 ■文月の末つかた都より歸りて清水山に世をさけて                    
  しる人はくみて知るらん清水山あさくもすめるおのがこころを
  あさけれど門のながれの一筋はうき世の中を隔てつるかな

 ■草廬を無鄰菴と名づけて
  となりなき世のかくれがのうれしきは月と蟲とにあひやどりして

 ■題草廬壁
  清水山前遠市囂、疎松寂々竹蕭々、有人如問吾茅屋、一逕斜通獨木橋

 ■八月十五夜白井野村時山南野など我庵にきたりければ
  何事も心かまへもなきやとは月こそよひのあるじなりける

 ■草庵にてよみけるうたども
  いつしかと聞くになれたる松風も耳たつ秋になりにけるかな
  もろこしの虎ふす野へとおもひしを此山里の人となりけり
  山水もあさくながれて砂しろく小松にこもるすまひなりけり
  きのふけふみねのしぐれに我庵の軒ばのもみぢ色つきにけり

 ■おなじ月の末萩より我庵に歸りて
  歸らじと思ひさだめていでし庵にふただびむすぶ夢の世の中

 ■明治元年戊辰正月三日奇兵隊の人々子の日のあそびにものして草庵に一もとづつ松をうつし植ければ
  移し植てよはひをのへの姫小松千代もとまてはねかはされども

 ■明治二年己巳の春のはじめ無鄰庵にて
  なみなみの世にはそむきてすむ庵も春におくれぬ鶯の聲


 ■己巳歳旦試筆
  無鄰草屋幽情更覺酒間塵味輕山鳥一聲梅一樹疎簾風動暗香清




こんな感じでした!時系列順にみていくと、最初の頃は言及していなかった梅の樹について、明治2年の詩で初めて詠まれていることがわかります。さらに、梅と関連する鶯という単語も出てきています。
山縣が住み始めた当初より梅の樹があったわけではないけれども、明治2年の冬より前に植えられたのではないか、という想像が成り立ちます。
(ちょうど、明治元年に奇兵隊士たちが一本ずつ松を植えたように)


さらに決定的なことには、明治42年8月11日の東京朝日新聞で、こんな記事を発見しました。
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「逝ける梅処尼」という題のこの記事は、この年の8月7日に亡くなった梅処尼のもとを、朝日新聞の記者が訪れた際のレポートとなっています。

記事によれば、記者が訪れたとき、梅処尼は病床に臥していました。が、珍しい遠方よりの来客に喜び対応をしたようです。
しかし、記者に高杉のことを尋ねられた途端、
「色遽に動き、眉根頓に上り、當時の事何呉となく譚り、『高杉が死んでからモウ四十年になります、存生中は今の立派な方々が毎日の樣に往復しました』と語り出て、急に口を噤んで後を言はず」
という様子に。
記者は梅処のただならぬ様子に遠慮をして帰ろうとしたものの、彼女によって引き留められ、仏間に招き入れます。そのあと記者が見たものについては、次のように書かれていました。



佛間の本尊は東行の油絵にして竪二尺横一尺五六寸、英姿颯爽、當時の長州青年を風靡したる豪傑の面目躍如たり、 
梅處尼今は病も忘れたるらしく、いそいそとして客間の戸を開け放てば、
これと共に紛として鼻を撲つものは、古杉老梅の間に交る三株の老梅なり、
こは山縣公が奇兵隊當時に植たるものとかや、梅處尼が更に奥より取り出せる一軸を見れば、

    若きとき植おきたる吉田の無隣庵の梅を
    東行庵主梅處尼のおくりければ
                         椿山荘主
  ふるさとの梅の一枝手に取れば
           昔にかへる花の香ぞする
   おくりこし梅も老木になりぬれと
           花は昔にかはらざりけり

とあり



東行庵の客間に面した庭に山縣が植えた梅の樹があり、それに関する和歌の軸も梅処尼にあったというのです。

私が知りたいこと(というか、それ以上の情報)が的確に書いてあった!!!!!
当時の新聞、侮りがたし!!!!(取材ガバガバの記事も多いと思いますが・・・)
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この記事からわかることは、
①山縣の植えた梅の樹は、東行庵の客間から見える位置にあったらしいこと
②「風雲集拾遺」に編まれている梅の花の和歌の「ある人」が他でもない梅処尼であったこと
③もともとは東行庵にいる彼女に贈られた歌だったということ
④詩集には漏れてしまったものの、同じタイミングで詠まれたもう一つの梅の歌があったこと

そして、依然わからないこと。
山縣の植えた梅の樹は、どうなってしまったのか・・・。
ついでに、梅処尼がこの記者に見せたという、山縣が贈ってきた歌もどうなってしまったの・・・。
このあたりは、何かしらの資料が見つかることを期待しています。山縣が贈った書は、東行庵にあれば一番いいんですが・・・(いつか展示されるかもしれないという希望が生まれるから)

梅に関しては、今は山縣が植えたものは存在しなさそうな予感ですが、
次に行ったときにはいつものごとく心の目モードを発動させて見てこようと思います(笑)
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初代無鄰庵は、名実ともに隣なき世の隠れ家でした。
でもじつはその庵の隣に眠っている人がいて、その人の好きだった花を植えるというのは、いかにも山縣らしいなあと思います。
(この感想には個人差があると思いますが、山縣は早世した友に対しては、情のあふれる言動をする人だったと思っています)(山縣ポジティブキャンペーン)
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