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高杉の死と葬儀と山縣の上京問題について@慶応3年

予は上京して薩邸に入り其の動静如何を探知し目的一に合せば倶に事を成さんと欲し
且諸隊に向ては今日の薩は昔日の薩に非ざる所以を明瞭ならしめんと欲し其心算を立てたりしに
高杉は何の思ふ所ありてか常に之を止めたり。

(『懐旧記事』)


山縣有朋の幕末期の回顧録である『懐旧記事』には、上記のような一文があります。
要は、いい加減長州から出て上京して薩摩との周旋とかそういう志士っぽいことをやってみたい!!!という山縣の切実な望みを、高杉が無下に断ち切り続けたという話。
伊藤之雄先生はこの件について、「死の床にあった高杉晋作が、寂しさのあまり、山県の京都行きを嫌がったからであろう。山県にはこういう優しさがあった。」(文春新書『山県有朋 愚直な権力者の生涯』)と評されています。

伊藤先生の本を読んでから、「実際どういう経緯なんだろう???」という疑問を抱えていたので、高杉の死と葬儀に絡めて、山縣の上京計画に注目してみました。


【この記事の登場人物】
■高杉晋作(谷潜蔵)
慶応3年4月14日(13日深夜)病没。16日、厚狭郡吉田村の清水山にて神式の葬儀が執り行われる。

■山縣狂介
12日に石川良平娘友子との結婚式をしていたが、高杉の危篤のため下関に呼び戻され、そのまま葬儀の世話人をつとめる。
この時期、高杉に上京を留められていたと証言している。
※山縣の結婚式の夜に着目した記事はこちら

■久保松太郎
松陰先生の親戚。船木・吉田などの要地の代官を歴任しており、慶応3年当時は下関在勤。
高杉の見舞いに足繁く通っており、かれの病状が悪化してゆくさまが『久保松太郎日記』に記されている。

■中野半左衛門
西市(現在の下関市豊田町)の大庄屋で萩藩の御用商人。
奇兵隊とも交流が深い。山縣の舅・石川良平の義理の父であり、山縣の婚姻の宴に招待されている。
『中野半左衛門日記』には、山縣の結婚式当日の様子などが記されている。

■白石正一郎
竹崎の商人。
葬儀には山縣・福田とともに関わっており、高杉の葬式の記録を残している。

■福田侠平
山縣とともに高杉の葬儀の世話人となっている。

■片山貫一郎
奇兵隊教授方。一説には白石正一郎の娘婿とも言われ、交流が深い。
高杉の神式葬儀で典儀をつとめ、祭文を読む。

■桧了厳
高杉が晩年、行動を共にしていた僧。高杉の最期を看取ったともいわれる。

■おうの
高杉の妾。最期まで看病していたかどうかは定かではない。
後年、新聞の取材にて、高杉の最期について語り残している。


【山縣上京までのざっくりとした経緯】
※前提として、前年秋くらいから、山縣は木戸らに上京をさせてもらえるよう動いている。

慶応3年2月22日
・藩政府より、山縣へ上京の命が下る(公爵山縣有朋伝)

2月29日
・山縣、上京の用筋について問い合わせるために山口に行く(木戸孝允文書/奇兵隊日記)

3月7日
・山縣の上京が、奇兵隊中に告知される(奇兵隊日記)

・3月21日
山縣、大宰府にいる木戸に対して、上京について指南を乞う手紙を書く(山縣有朋関係文書)

4月2日
・山縣の上京のための出立において、鳥尾小弥太の随行が決まる(奇兵隊日記)

4月3日
・山縣が、上京のため吉田の本陣を発ち馬関に向かう。
長府まで、奇兵隊幹部らが見送る(奇兵隊日記)

4月8日
・山縣が久保松太郎に「谷気分宜しからず」と伝え、共に林算九郎方の高杉を見舞う(久保日記)
・山縣が石川良平娘友子と婚姻することが中野半左衛門夫妻に知らされる(中野日記)

4月11日
・山縣と石川良平娘友子の婚姻の宴が執り行われる(中野日記)
※この婚儀の場所は不明ですが、馬関ではないことは確か。湯玉かな?
・久保松太郎、高杉を見舞う。「谷別して不快の由」(久保日記)

4月12日
・久保、再び高杉を見舞う。「少し折り合い候由」(久保日記)
前日具合が悪かったので、心配して再び見舞いに行ったのだと思われる。久保さん・・・(´;ω;`)
・山縣の結婚祝として、奇兵隊士や中野等で宴会(中野日記)
・夜半頃、祝宴中の山縣のもとに馬関よりの飛脚が訪れ、高杉の危篤が知らされる(中野日記)

4月13日
・山縣、馬関へ帰る(中野日記)
・夜半、高杉が林算九郎方にて命を落とす(奇兵隊日記ほか)
・夜八ツ時、高杉死去の知らせを訊き、白石正一郎と片山貫一郎が林方へ行く(白石日記)
・夜九ツ半時、福田より高杉の訃報を知らされ、久保松太郎が林方へ急行(久保日記)
※ちなみに「白石日記」によれば、福田侠平はこの前日、白石邸を訪問しているので、山縣と違って馬関に居たことがわかります。
・臨終についての梅処尼の証言
「旦那は又も突と首だけあげられまして、山県狂介は未だ来んか、とお叫びなさいます。竜眼(桧了厳)さんは手を突かれて、山県さんは、今日は丁度吉田村で、湯玉の石川のお嬢さんと、婚礼をなさる日だといふことをお話しなさいますと、アハ………さうであッたか。能くいッといて呉れ、と高らかにお笑ひ遊ばしそのまゝ寝入るが如く黄泉へ………三人は泣き崩折れました。御享年廿九歳。」
(「東行庵梅処尼今昔物語」)
この梅処尼の回顧録は、時系列を考えてもそんなにおかしくないと思います。
臨終の場ではなかったとしても、これに類するような出来事があったのでは、と思わせられる。

4月14日
・昼前、白石邸にて、山縣・福田・白石で高杉の神式葬儀について相談をする。一酌し、夜中に福田・山縣は帰る。
その際、山縣は、近日中に上京をする予定のため、藤井良節に刀を催促する手紙を白石に言伝る(白石日記)
「ハイじゃあ高杉さんも亡くなったことだし僕は心置きなく京都に行くのでよろしく!」って山縣さん、それは流石に露骨すぎでは???(言ってない)


4月15日
・高杉の葬式のための神祭用具が、ことごとく白石邸に預けられる(白石日記)

4月16日
・吉田にて、高杉の神式葬儀が執り行われる(神式葬儀記録)
※葬式の流れはこんな感じ。

4月18日
・昼前、山縣が厚東次之助・鳥尾小弥太等と共に白石邸を訪ねる(白石日記)

4月21日
・山縣が木戸に手紙を書く。
高杉の逝去を知らせ、上京の随員が鳥尾小弥太に決まったことも伝える(木戸孝允文書)

4月23日
・山縣、久保松太郎を訪ね、料亭岩万に同道する(久保日記)

4月25日
・山縣、変名を秋本竹之助にする(久保日記)
・山縣、近日中に薩摩船にて上京することを、吉田の奇兵隊本陣に知らせる(奇兵隊日記)

4月26日
・大坂楼にて、山縣・鳥尾の送別会(久保日記)

4月27日
・山縣、白石邸に上京の暇乞いに行く(白石日記)
・馬関を訪れていた薩摩藩士大山格之助等が、山縣と同船して上京すること久保に申し出る
※山縣の同意がないため、久保は返答せず(久保日記)

4月28日
・曙亭にて、山縣等の出立につき、送別会(久保日記)

5月2日
・山縣、鳥尾は馬関を出立。見送りは久保、福田、滋野等(葉桜日記)

上京後のざっくりとした流れはこちら


4月14日に山縣が一瞬で上京の話を進めているのはさすがに露骨すぎませんか、というのが突っ込みどころ。

久保日記を読んでいると、病状が進行した高杉の周囲からは、遠ざかっていく人がかなり多かったんだろうなあ…と察することができます。(久保松太郎は最期まで見舞いに行っていた数少ない人物では)
高杉本人から積極的に上京を留められていたのかはともかく、結局高杉の葬儀が無事に終わるまで馬関に留まり続けた山縣の気持ちは、少しわかるような気がします。少なくともこの頃の山縣って、そういう人だよな、という認識。

慶応年間の山縣は明らかに木戸系のグループではなかったけど、高杉が亡くなると後ろ盾になる人間(藩政府に携われるような立場の)がいなくなるのは明らかなんですよね。なので、この少し前から木戸さんへの接触が少しずつ増えていっている印象が強いですね。でも根っこから木戸系でもないし大村系でもないっていうことが、この後の西郷さんへの傾倒にもつながっていくのかなあ、と。
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